PRTRデータを用いた大気汚染物質のリスク評価

:大気拡散モデルによるアプローチ




伏見暁洋1, 梶原秀夫2, 吉田喜久雄1,2,3

1 横浜国立大学環境科学研究センター

2 科学技術振興事業団

3 (株)三菱化学安全科学研究所

 

キーワード: PRTR, ISC(Industrial Source Complex)モデル, シミュレーションモデル, 大気汚染物質,

ベンゼン, NOx

 

Abstract

 PRTRによる排出量データを用いてリスク評価を行うためには、排出量データから環境中濃度を計算するためのモデルが必要となる。我が国においては大気中の総量規制物質(SOx, NOx)についてはシミュレーションモデル(総量規制モデル)による計算によって環境濃度を再現することに成功している。しかし既往の総量規制モデルは、ソースコードや計算条件が非公開であるため異なった立場の人間が同一の計算を行うことができず、リスク評価の結果に基づくコミュニケーションをするためには不適当である。健康影響リスク評価等に適用されており、またソースコードも公開されているISC(Industrial Source Complex Model)を基本骨格としたシミュレーションによってNOxの濃度の計算を行い、総量規制モデルとの比較を行った。総量規制モデルによる計算結果と本研究の計算結果との誤差は地域平均値で10%以下となりNOxの濃度予測を行うことは可能であることが示された。PRTRパイロット事業による川崎市のベンゼン排出量を用いた計算の結果、計算濃度の実測濃度に対する比はNOxの同比の1/4以下となった。ベンゼンの計算濃度がNOx濃度と比較して相対的に小さく見積もられた主な原因として、1)大気中の反応性の違いによる影響、2)拡散式に用いる拡散パラメータと発生源高さの影響、3)報告排出量の影響、について考察した。3点とも濃度の過小見積もりに寄与する可能性が確認された。

 

1.緒言

 我が国では1999年7月に「特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律」いわゆるPRTR(Pollutant Release and Transfer Register)法が公布され、2001年度から実施される予定である(環境庁,1999)。PRTR法施行後には、多くの化学物質の大気、水、土壌への排出量データが入手可能となる。大気汚染物質によるリスク評価、リスク管理を行うには報告された排出量データと環境濃度とが整合性をもっているかどうかをシミュレーションモデルによって検証する必要がある。しかしこれまでは化学物質の排出量の報告が行われることが少なかったため、そのような検証が行われた例は少ない。例外的に大気汚染物質の硫黄酸化物(SOx)と窒素酸化物(NOx)については、総量規制物質であるため指定地域からの排出量が詳細に調べられてきた。そのため排出量データと環境濃度との整合性についても詳細な大気拡散シミュレーションモデルによる検証が行われてきている(以下、総量規制物質に用いられた大気拡散シミュレーションモデルを気象や発生源などの入力パラメータも含めて総量規制モデルと呼ぶ)。

 しかし総量規制モデルはPRTR排出量に基づく濃度予測およびリスク評価には適していないと思われる理由が2つある。1つめは計算のために必要な情報が公開されていないことである。通常、総量規制モデルによる計算は自治体からコンサルティング会社に委託して行われており、その結果は報告されるもののソースコードや各入力パラメータの情報は公開されていない。そのため他者が計算を再現し検証を行うことが基本的には出来ない。リスク評価のためのシミュレーションモデルは、異なる立場のものが共通して使うことができるのが望ましいので、計算に必要な情報が公開される必要がある。2つめは計算に必要な入力情報が詳細すぎることである。とくに個々の発生源の位置と排出量の情報(発生源パラメータ)について詳細に設定している。しかし、PRTRでは様々な方法で推定される質の異なる排出量情報が公開されると予想される。よって本研究ではPRTRから得られる排出量データとソースコードが公開されたモデルを用いて環境濃度を予測することを試みた。

 本研究のモデルの基本骨格としてはISC(Industrial Source Complex Model)(U.S.EPA,1995)を用いた。ISCは大気汚染物質のリスクアセスメントのために米国EPAが開発した大気拡散モデルであり、検証や改定が数回なされてきている。またソースコードが公開されておりインターネットから無償でダウンロード可能である(http://www.epa.gov/scram001/)。

 本研究の構成は大きく2つに分かれる。まず、総量規制物質のNOxについて総量規制モデルを参考にしながら本研究のモデルの検証を行う。次にNOxによって検証されたモデルと、PRTRパイロット事業によって報告されたベンゼンの排出量データとを用いて環境濃度を予測し結果を考察することである。ベンゼンはその発生源や大気中の濃度分布がNOxと比較的類似している(Kajihara et. al., accepted)ことが知られているため、NOxによって検証されたモデルを適用する物質として適している。またベンゼンは白血病を引き起こすことが知られた発ガン性物質であるため、リスク評価の必要性も高まっている。
 
 

2.計算条件

 ISCには長期間の平均濃度を予測するためのLT(Long Term Model)と短時間の平均濃度を予測するためのST(Short Term Model)とがある。本研究では、長時間の連続曝露に伴う慢性健康影響のリスクを評価する際のモデルの適用方法を検討する必要性と、比較対象の総量規制モデルによる報告書が年平均濃度を予測している、という理由からLTを用いた。比較のための総量規制モデルとして、川崎市(川崎市,1998)および東京都(東京都,1997)のNOxについての報告書を用いた。川崎市はPRTRパイロット事業の対象地域でもありモデルの検証にふさわしい地域である。

 Table 1(a)に川崎市におけるNOxの排出量(川崎市,1998)を区ごと発生源種別に示す。総量規制モデルにおいては計算に際し、発生源パラメータ(位置と量)をTable 1(a)に示す以上に詳細(道路ごと、事業所ごと)に設定しているが、具体的な値を報告書から読みとることはできない。本研究においては2×2kmの正方メッシュを切り、それぞれのメッシュに対応する区の排出量を与えた。メッシュ内においては面的に一様な排出を仮定した(面発生源の仮定)。比較的粗い2kmメッシュとしたのは、入手可能な排出量データの空間分解能がその程度であったことと、計算時間の短縮のためである。Figure 1に川崎市,東京都の白地図とメッシュ図を示す。川崎区については埋め立て地の工業地帯に大規模な固定発生源が集中していると考えられるため、臨海部と内陸部という二つの地域に分け、工場・事業所からの排出量は臨海部からのものと仮定した。発生源高度は工場・事業所については100m(川崎区臨海部)、または50m(川崎区臨海部以外)とし、工場・事業所以外の発生源については自動車が支配的であるので一律に1.5mと仮定した。また川崎市の周辺市町村の発生源については報告書(川崎市,1998)に十分な記述がないため川崎市内の発生源のみを計算の対象とした。計算点(レセプター)はメッシュの中央点とした。Table 2に本研究で用いた発生源・気象・立地などに関するパラメータを示す。

 本研究のモデルと総量規制モデルの計算条件の主な違いをTable 3に示す。拡散式の種類、発生源パラメータ、気象パラメータともに本研究ではかなり単純化した仮定をおいている。

 東京都についても川崎市と同様な計算条件を仮定した。東京都におけるNOxの排出量(東京都,1997)はその総量をTable 1(b)に市区町村ごとの排出量をAppendixに示す。東京都において航空機の発生源高度は50mと仮定した。
 

Table 1(a) 川崎市におけるNOx排出量 (1993年度) a)                      (トン/年)
面積(km2)b)
工場・事業所c)
自動車
船舶d)
民生e)
合計
川崎区
39.21
11,307
1,342
624
78
13,351
幸区
10.05
28
296
78
402
中原区
14.70
62
273
78
413
高津区
16.36
124
618
78
820
多摩区
20.49
17
338
78
433
宮前区
18.61
17
766
78
861
麻生区
23.28
79
136
78
293
合計
142.70
11,634
3,768
624
548
16,574
a)川崎市における今後の窒素酸化物対策及び浮遊粒子状物質対策について」(川崎市,1998)、ただし区毎の排出量は川崎市環境局公害部大気課からの私信  b)平成10年版市町村要覧(市町村自治研究会,1998)  c)工場・事業所からの排出量の内、区毎排出量が未明な簡易ボイラ及び簡易焼却炉からの合計排出量18トンは川崎区に5トン、それ以外の区に2トンずつ配分した  d)区毎の排出量が未明な船舶からの排出量は全て川崎区から排出されると仮定して配分した  e) 区毎の排出量が未明な民生からの排出量は各区から均等に排出されると仮定して配分した
 

Table1(b) 東京都におけるNOx排出量 (1995年度) a)                     (トン/年)
面積(km2)b)
工場・事業所
自動車
船舶
民生
航空機
建設機械
合計
1776.3
9,895
44,999
1,482
9,437
1,827
7,428
74,888
a)窒素酸化物削減対策基礎調査報告書(東京都,1997)、Appendixに区毎排出量を示す  b)島しょ部を除いた面積,平成10年版市町村要覧(市町村自治研究会,1998)

 
Table 2 本研究で用いた拡散・気象・発生源等のパラメータ
パラメータ名 パラメータ値あるいは説明
  拡散式   プルーム式  
  拡散幅   Briggs式(都市域用)  
  気象データ   東京気象台('97年)の時間値データを元に作成

年間出現頻度を対象地域全体に使用

 
  大気安定度   パスキルの安定度分類に基づき一時間毎に算出  
  混合層高度(m)   800(A),600(B),500(C),300(D),∞(E),∞(F)

(括弧内は大気安定度)

 
  年平均気温(℃)   16.7  
  排出高度(m) NOx

 

ベンゼン

工場(川崎区臨海部) … 100

工場(その他の区,市) … 50

その他の発生源 … 1.5

工場 … 10

その他の発生源 … 1.5

 
  発生源形態   全て面発生源(2×2km 正方形メッシュ)  
  レセプター配置・高度   配置 … 発生源メッシュの中央点

高度 … 1.5m

 
  土地・立地   起伏の無い平坦地形を想定  
  地面粗度(土地利用)   補正無し  
  大気中での反応・消失   無視  
a)モデルの基本骨格にはISCを用いた。 表中に示されていない計算条件等はISCのデフォルトでの計算
b)ISCでは安定度E,Fについては上空方向への無限拡散を仮定している
 
 

Table 3 総量規制モデルと本研究の計算条件等の比較
条件,パラメータ
総量規制モデルa)
本研究
拡散式
プルーム式(有風時)
パフ式(微風,無風時)
プルーム式
拡散パラメータ
P-G式(プルーム式に使用)b)
Turner式(パフ式に使用)c)
Briggs式(都市域用)
発生源パラメータ
主要発生源:位置,排出量等を個別に設定
群小発生源:面源
全て面源(2×2km正方形)
気象パラメータ
風系や安定度によって複数の気象ブロックに分割
一つの気象条件を全域に使用
a)(川崎市,1998; 東京都,1997; 環境庁,1995)b)近似式及び距離区分は異なる c)Turner図から求めた値を補正したもの
 


Fig. 1 川崎市,東京都の白地図と2km×2km正方メッシュ
 
 

3.計算結果とモデルの計算条件の妥当性についての考察

 川崎市内のNOx濃度の計算結果をFigure 2に示す。東部の湾岸部から西に向かって濃度が減少している様子がわかる。川崎市内の9地点における本研究のモデルおよび総量規制モデルでの計算濃度と実測濃度をTable 4に示す。川崎市内の発生源のみを発生源パラメータとして用いたときの総量規制モデルによる計算濃度に対する本研究のモデルによる計算濃度の比は0.61-1.33となった。9地点の平均濃度は総量規制モデルによる計算値が18.2ppbであるのに対し本研究では16.5ppbと、その比は0.91であった。総量規制モデルと本研究での計算結果との間の決定係数は0.54でありt検定の結果95%の確率で有意な相関が認められた。また両モデルともに計算値は実測値よりかなり小さく30%程度であった。これは川崎市が東京都と横浜市という大都市に挟まれた細長い地形をしており面積も小さいため、市外の発生源の影響を強く受けるためであると考えられる。
 


Fig. 2 川崎市におけるNOx濃度計算値
 
 

Table 4 川崎市における大気中NOx濃度の実測値と計算値(1993年度)                (ppb)
測定局
実測濃度
計算濃度a)
本研究
総量規制モデル
川崎区大師
62.8
24.5
19.7
川崎区田島
62.9
23.2
27.6
川崎区国設川崎
62.8
19.3
16.7
幸区幸
66.5
17.1
27.9
中原区中原
60.7
11.4
15.8
高津区高津
62.9
17.9
13.4
宮前区宮前
62.4
20.0
26.1
多摩区多摩
51.7
9.1
8.8
麻生区麻生
39.0
6.2
7.6
一般局平均
59.1
16.5
18.2
a)川崎市内の発生源のみを対象とした計算結果
 
 

 東京都内のNOx濃度の計算結果をFigure 3に示す。東京都内の9地点における本研究および総量規制モデルでの計算濃度と実測濃度をTable 5に示す。東京都内の発生源のみを発生源パラメータとして用いたときの総量規制モデルによる計算濃度に対する本研究の計算濃度の比は0.29-1.29となった。総量規制モデルの計算濃度と本研究による計算濃度との差が極端に大きい地点が1地点ある(八王子市片倉)。この地点は測定局のごく近傍の発生源の影響を受けていると考えられ、この地点を除けば、(本研究の計算濃度)/(総量規制モデルによる計算濃度)の比は0.65-1.29となった。9地点の平均濃度は総量規制モデルによる計算値が40.5ppbであるのに対し本研究では39.1ppbとなりその比は0.96であった。総量規制モデルの計算結果と本研究での計算結果との間の決定係数は0.52であり、t検定の結果95%の確率で有意な相関が認められた。計算値の実測値に対する比は70%強であり川崎市の場合よりも大きかった。これは東京都の面積が大きく発生源も多いことから、都内の発生源からの排出量によって環境濃度が支配されていることを示唆している。
 
 


Fig. 3 東京都におけるNOx濃度計算値
 

Table 5 東京都における大気中NOx濃度の実測値と計算値(1995年度)             (ppb)
測定局
実測濃度
計算濃度a)
本研究
総量規制モデル
新宿区国設東京
64.9
69.0
65.0
大田区東糀谷
67.4
56.5
43.9
世田谷区世田谷
55.3
53.4
41.3
板橋区氷川
70.7
51.2
53.3
江戸川区春江町
57.9
45.4
45.8
小金井市本町
47.7
30.0
27.9
八王子市西寺方
20.1
14.5
11.6
東大和市奈良橋
40.9
15.3
23.4
八王子市片倉
65.3
16.9
52.3
一般局平均
54.5
39.1
40.5
a)東京都内の発生源のみを対象とした計算結果
 
 

 本研究では各パラメータの感度解析を十分に行っていないため、各入力パラメータが結果に与える影響については主立ったものを定性的に述べるにとどめる。モデルの入力パラメータの中で最も計算結果に影響が強かったのは発生源の形状を面発生源としたことであった。点発生源を仮定した場合は計算濃度が数倍から一桁程度小さくなった。各大気安定度ごとの混合層高度はTable 2に示すように設定したが、これらの値も結果に強い影響を及ぼした。発生源高度および計算点高度も計算濃度に強い影響を与えたが、発生源高度を、移動発生源1.5m、工業地帯の工業・事業所100m、工業地帯以外の工場事業所50m、計算点高度を1.5mとする仮定は常識から判断して無理のないものと考えられる。

 以上に述べてきたような計算条件を用いた計算の結果、総量規制モデルによる計算濃度をおよそ±30%程度の誤差で再現することができた。各地点の計算濃度間の相関も有意であった。広域(川崎市あるいは東京都)の平均濃度としては総量規制モデルの結果と比較して10%以内の誤差となった。よって本研究の計算条件は粗い精度であれば環境濃度を予測することが可能であることがわかった。総量規制モデルとの計算値のズレは、計算点近傍の状況を再現できないことによる限界と考えられる。
 
 

4.PRTRデータを用いた環境濃度計算結果

 PRTRパイロット事業は平成9年度に開始され、平成10年度には4地域(神奈川県川崎市、神奈川県湘南地域、愛知県西三河地域、福岡県北九州市)において実施され結果が公表されている。PRTRによる排出量データを用いた計算を行うにあたって、NOxについてモデルの妥当性が検証された川崎市を対象地域とした。

 Table 6に平成10年度PRTRパイロット事業によって報告された川崎市(臨海部、内陸部、丘陵部の区分ごと)のベンゼン排出量データを示す。NOxの場合と同様に排出量を各メッシュに割り振った。排出量と発生源高度の一部のパラメータ以外はNOxについて行った計算時と同じ計算条件を用いた。工場・事業所からのベンゼンの発生源高度はベンゼンが主に溶媒や化学原料として用いられ、煙突からの排出は考えにくい為10mとNOxよりも低く設定した(Table 2)。川崎市以外の発生源については十分なデータがないため計算対象から外した。
 

Table 6 川崎市のベンゼン排出量(1997年度)a)                       (トン/年)
地域
工場・事業所
自動車
二輪車
船舶
鉄道
ガソリンスタンド
総量
臨海部
43.5
2.6
2.7
1.7
0
2.0
52.5
内陸部
0
3.4
8.5
0
0
2.9
14.8
丘陵部
0
3.2
6.6
0
0
3.0
12.8
合計
43.5
9.2
17.8
1.7
0
7.9
80.1
a)平成10年度PRTRパイロット事業報告書(環境庁,1999 b)
 

 川崎市内の4地点における本研究による計算濃度と実測濃度をTable 7に示す。実測値は平成9年度に川崎市によって測定された年10-12回の値の平均値である。計算濃度は実測濃度の4-7%程度であり、4地点の平均では実測濃度が4.13μg/m3であるのに対し計算濃度が0.25μg/m3と実測濃度の6%を説明するにとどまった。NOxの場合計算値は実測値の28%であり、ベンゼンの計算濃度はその1/4以下しか説明できていない。

 NOxの計算条件に比べてベンゼンの計算条件には濃度を小さく見積もる原因として次の3つの要素が考えられる。1)NOxよりもベンゼンの方が化学的に安定であるため大気中に長時間滞在し、より遠くの発生源の影響を受けること 2)総量規制モデルと本研究のモデルとでは拡散幅を決めるための式が異なること 3)PRTRパイロット事業によって報告されたベンゼンの排出量が小さすぎること、の3点である。
 

Table 7 川崎市における大気中ベンゼン濃度の実測値と本研究による
     計算値(1997年度)               (μg/m3)
測定局
実測濃度
計算濃度a)
川崎区大師
5.19
0.32 
川崎区国設川崎
3.60
0.25
中原区中原
3.85
0.27
多摩区多摩
3.88
0.17
一般局平均
4.13
0.25
a)川崎市内の発生源のみを対象とした計算結果
 
 

5.PRTRデータを用いた環境濃度計算結果についての考察

5.1 ベンゼンとNOxの反応性の違いについての考察

 ベンゼンの一般環境大気中の半減期は5.3日(WHO,1993)という報告がある。NOxの消失反応速度は日射量により大きく変動をうけその消失速度として0.6 %/h - 5.3 % /h という幅をもつ値が報告されている(環境庁,1995)。この消失速度は一次反応を仮定すれば、0.5日-4.5日の半減期に相当する。我々の過去の研究(Kajihara et. al., accepted)によれば1997年度における環境中のベンゼン濃度(Y,μg/m3)とNOx濃度(X,ppb)との関係には

Y = 0.067 X + 0.91 (1)

という関係がみられた。この式の切片値0.91μg/m3はベンゼンがNOxよりも半減期が長いことによると思われる。また全国の有害大気汚染物質モニタリング調査結果(環境庁,1998)によっても一般環境測定局におけるベンゼンのバックグラウンド濃度は1μg/m3程度であると報告されている。一方全国の大気測定局におけるNOx濃度のバックグラウンド濃度は0-4ppbと無視できる程度の値である(環境庁,1995)。よって川崎市の実測濃度の平均値である4.13μg/m3のうち1μg/m3はモデルによっては再現できないバックグラウンド濃度とみなすことができる。バックグラウンド濃度を差し引いた残りの3.13μg/m3に対する計算値0.25μg/m3の比は8%程度であり、なおNOxの場合の再現率28%よりもかなり低いため、反応性の違いだけではモデル計算濃度が小さすぎることを説明しきれない。
 
 

5.2 拡散幅についての考察

 Table 3で示したように本研究ではプルーム式の拡散幅をBriggsの式(以下Brgs式)(U.S.EPA,1995)で決定しているのに対し、総量規制モデルではPasquill-Giffordの式(以下P-G式)(環境庁,1995)を用いている。Brgs式とP-G式との違いを定性的に言えばBrgs式の方がP-G式よりも風下距離に対して水平方向、鉛直方向ともに拡散する幅が広い。鉛直方向の拡散幅が大きければ地表付近からの排出分は地表付近では薄まりやすく、逆に高い発生源からの排出分は地表に届きやすい。川崎市の計算時において、ベンゼンは1.5mまたは10mの高さから排出され、一方NOxでは総排出量の70%が50mまたは100mの高さから排出されると想定した(Table 2)。つまりNOxの方が高い発生源からの排出割合が多い。よって拡散幅が大きいBrgs式を用いた方がP-G式を用いるよりも地表付近の発生源が支配的なベンゼンの濃度を小さめに算出し、高い高度からの発生源が支配的なNOxの濃度を大きめに算出するといえる。よって、拡散幅を決定する式の違いが、ベンゼンの計算値の実測値に対する比がNOxの同比よりも小さいことの一つの原因であると思われる。しかし、その影響の大きさについては今後の検討課題である。
 
 

5.3 PRTR排出量データについての考察

 Table 6からわかるように、PRTRパイロット事業で報告された川崎市のベンゼン排出量の内訳は工場・事業所が54%、自動車・二輪車が34%でありこの2種の発生源で大半を占めている。工場・事業所からの排出量は各事業主からの報告に基づいて算出しているが、その報告率は高くない。例えば、工場・事業所からの排出量の91%を占める化学系製造業からの報告率は55%である。ここで報告率とは報告書を発送した事業所の総数に占める排出量の報告のあった事業所の総数を表している。

 PRTRにおいては自動車・二輪車からの排出量は環境庁によって見積もられる。自動車・二輪車からの排出量の内訳とそれぞれの車種の排出係数(単位走行距離あたりのベンゼン排出量)、のべ走行距離をTable 8に示す。カッコ内に書かれている排出係数は実測値がないため他の車種のものを代用した数値である。自動車・二輪車からのベンゼンの排出係数について複数の車両や走行モードでの実験結果を報告した例は少ないが、ガソリン乗用車についてはいくつかの実験値が報告されているのでその一部をTable 9に示す。PRTRで用いられているガソリン乗用車の排出係数である0.6mg/kmは、比較的エンジンの燃焼条件が良好な10・15モードの実験値と比較すると数倍-10倍程度小さな値である。

 本研究では、ガソリン乗用車からの排出係数をTable 9に示した10・15モードでの排出係数の平均値である4.5mg/kmと見積もった。ベンゼンは不完全燃焼によって排出される炭化水素の成分のひとつであるため、その排出量は排ガス中の炭化水素の排出量と比例すると仮定することは妥当である。排ガス中炭化水素は排ガス規制対象物質であるため、車種ごと、走行モードごとに細かく調べられている(野村総合研究所,1998)。本研究ではガソリン車からのベンゼンの排出係数が全炭化水素の各車種、各走行モードの排出係数の報告値に比例すると仮定し、ガソリン車全体からのベンゼン排出量を56.4トン/年と見積もった。二輪車とディーゼル車についてはPRTRパイロット事業の報告値を用いた場合、二輪車・自動車からの総排出量は78.1トンとPRTR報告値である27.0トンの2.9倍と見積もられた。

 以上より、工場・事業所および二輪車・自動車からの排出量の過小見積もりが、ベンゼンの計算値の実測値に対する比がNOxの同比よりも小さいことの一つの原因になりうることが示唆された。
 
 

Table 8 PRTRパイロット事業で報告された自動車,二輪車の排出係数と川崎市における走行台キロa)

車種
ガソリン
ディーゼル
LPG
二輪車
乗用車
軽貨物
軽量トラック・バス
中量トラック・バス
重量トラック・バス
乗用車
軽量トラック・バス
中量トラック・バス
重量トラック・バス
乗用車
排出係数

(mg/km)

0.62
21
(0.62)
2.1
7.4
1.0
(1.0)
4.3*
5.8
(0.62)
133.9
走行台キロ

(106台キロ/年)

1,310

b)

152
136
250
81
198
59
95
567
- b)
133
排出量

(トン/年)

0.81b)
3.2
0.08
0.53
0.60
0.20
0.06
0.41
3.3
- b)
17.8
()付きの値は実測値が無いために他の車種の実測値を用いたもの *印付きの値は一台のみの実測値をもちいたもの
a)平成10年度PRTRパイロット事業報告書(環境庁,1999 b)  b)LPG乗用車の走行台キロ及び排出量はガソリン乗用車の分に含まれると読み取った

 
Table 9 ガソリン乗用車のベンゼンの排出係数(実験値)                (mg/km)
報告主体
排気量(cc)
走行モード
10・15モード
11モード
石油連盟a)
1000-2000
6.0 (4) 50 (1)
JARI b)
2000
0.22 (1) 27.3 (1)
石油基盤研 b)
2000
2.71 (1) 13.2 (1)
()内の数字は実験台数  a)(石油審議会,1996)  b)(資源エネルギー庁私信,1998) 
実験車両は全て触媒装着車、ガソリン中のベンゼン含有率は全て2.3体積%
 
 

6.結言

 ISCを基本骨格としたモデルによって川崎市内および東京都内のNOxの年平均濃度の計算を行った。実測濃度の年平均値に対する計算濃度の比は川崎市で28%、東京都で72%であった。川崎市においては市外の発生源からの寄与が大きいことが示された。詳細な入力データを用いた総量規制モデルによる計算値と本研究の計算値との誤差は地域平均値で10%以下となり、本研究の方法による濃度予測の可能性と精度が示された。PRTRパイロット事業による川崎市のベンゼン排出量を用いた計算の結果、計算濃度は実測濃度の6%にとどまり、NOxの場合(28%)の1/4以下となった。同一のモデルを使ったのにもかかわらず、ベンゼンの計算濃度がNOx濃度と比較して相対的に小さく見積もられた主な原因として、1)大気中の反応性の違いによる影響、2)拡散式に用いる拡散パラメータと発生源高さの影響、3)報告排出量の影響について考察し、3点とも濃度を過小に見積もる可能性があることを確認した。
 
 

7.謝辞

 本研究は科学技術振興事業団(JST)、基礎科学研究推進事業(CREST)による支援を受けました。ここに感謝の意を表します。
 
 

8.参考文献

株式会社 野村総合研究所: 自動車排出ガス原単位および総量に関する調査報告書(1998)

Kajihara, H., Ishizuka, S., Fushimi, A., Masuda, A., Nakanishi, J.: Environmental Engineering and Policy
     (accepted)

環境庁報道発表資料: 平成10年度PRTRパイロット事業報告書について(1999)

環境庁環境保健部環境安全課: 平成10年度PRTRパイロット事業報告書(1999)

環境庁大気保全局大気規制課編: 窒素酸化物総量規制マニュアル(1995)

環境庁大気保全局大気規制課: 平成9年度地方公共団体等における有害大気汚染物質モニタリング調査結果について (1998)

川崎市公害対策審議会: 川崎市における今後の窒素酸化物対策及び浮遊粒子状物質対策について(答申)(1998)

石油審議会石油部会石油製品品質専門委員会: 今後の石油製品の品質のあり方について(1996)

市町村自治研究会編集: 平成10年版 全国市町村要覧(1998)

資源エネルギー庁: (私信)(1998

東京都環境保全局委託,財団法人計量計画研究所: 窒素酸化物削減対策基礎調査報告書(1997)

東京都環境保全局: 都内自動車走行量及び自動車排出ガス量算出調査報告書(1996)

U.S.EPA: Carcinogenic Effects of Benzene: An Update. Washington DC: Office of Research and Development,
     EPA/600/P-97/001F (1998)

U.S.EPA Office of Air Quality Planning and Standards: User's Guide for the Industrial Source Complex
     (ISC3) Dispersion Models, Volume 1 and 2, U.S.EPA. EPA-454/B-93-003a and b (1995)

World Health Organization: Environmental Health Criteria 150, Benzene(1993)
 
 

Appendix 東京都におけるNOx排出量(1995年度)a)                         (トン/年)
行政区
面積(km2)
工場・事業所
自動車b)
船舶c)
民生d)
航空機e)
建設機械
合計
千代田区
11.64
216.1
1716.5
195.6
91.6
2219.8
中央区
10.15
78.9
1195.6
247.0
303.9
334.2
2159.6
港区
20.34
183.6
1677.0
247.0
462.2
388.5
2958.3
新宿区
18.23
158.2
1183.6
523.9
124.0
1989.7
文京区
11.31
51.0
630.9
222.6
77.1
981.6
台東区
10.08
19.7
1049.5
299.7
85.7
1454.5
墨田区
13.75
68.6
2123.0
166.8
151.0
2509.3
江東区
39.24
833.4
1459.0
247.0
299.9
401.7
3241.0
品川区
22.69
2376.1
1902.5
247.0
231.3
390.8
5147.7
目黒区
14.70
135.3
639.3
260.0
91.2
1125.8
大田区
59.46
605.6
2469.1
247.0
378.1
1827.0
375.5
5902.4
世田谷区
58.08
203.8
3193.3
501.9
323.0
4222.0
渋谷区
15.11
68.5
1480.7
374.2
100.0
2023.4
中野区
15.59
14.9
694.1
249.6
89.8
1048.4
杉並区
34.02
125.7
1045.1
289.7
150.2
1610.8
豊島区
13.01
46.9
634.7
48.9
82.2
812.7
北区
20.59
58.8
674.7
68.4
191.9
993.7
荒川区
10.20
14.7
435.8
124.3
73.5
648.3
板橋区
32.17
557.9
2445.7
76.2
151.6
3231.4
練馬区
48.16
173.0
1799.9
130.1
224.1
2327.0
足立区
53.20
426.7
2393.5
127.1
343.1
3290.5
葛飾区
34.84
515.4
1474.0
196.0
188.1
2373.6
江戸川区
49.86
190.5
2462.2
247.0
159.3
409.0
3468.0
八王子市
186.31
241.5
1969.1
145.5
324.8
2680.9
立川市
24.38
86.8
365.9
38.9
95.0
586.6
武蔵野市
10.73
57.6
232.4
297.6
76.3
663.9
三鷹市
16.50
55.1
323.4
428.6
69.7
876.8
青梅市
103.26
24.5
504.0
154.1
143.0
825.6
府中市
29.34
108.6
898.5
46.3
173.6
1227.0
昭島市
17.33
177.4
326.3
110.1
55.6
669.4
調布市
21.53
162.0
571.9
136.9
107.2
978.1
町田市
71.64
153.4
696.7
164.5
191.8
1206.4
小金井市
11.33
4.0
209.4
141.0
53.3
407.8
小平市
20.46
170.9
304.2
116.5
71.7
663.3
日野市
27.53
428.1
645.9
46.3
93.2
1213.5
東村山市
17.17
63.6
313.0
63.8
70.7
511.2
国分寺市
11.48
36.1
142.2
138.0
66.6
382.9
国立市
8.15
32.6
262.7
37.2
30.3
362.8
田無市
6.80
13.7
152.8
267.6
41.3
475.3
保谷市
9.05
3.2
175.2
230.9
49.0
458.2
福生市
10.24
2.7
146.1
56.9
38.6
244.3
狛江市
6.39
4.7
105.8
171.3
44.6
326.4
東大和市
13.54
18.5
103.0
28.8
45.2
195.4
清瀬市
10.19
11.7
115.0
308.0
31.4
466.1
東久留米市
12.92
120.6
172.9
242.0
48.3
583.9
武蔵村山市
15.37
70.6
262.6
60.5
36.4
430.1
多摩市
21.08
78.4
399.6
99.3
60.9
638.2
稲城市
17.97
111.6
152.1
56.7
33.2
353.5
羽村市
9.91
253.9
157.7
54.8
36.3
502.7
あきる野市
73.34
60.1
146.2
102.6
109.5
418.4
瑞穂町
16.83
127.5
250.4
2.0
27.6
407.5
日の出町
28.08
22.6
62.9
0.3
35.4
121.2
桧原村
105.42
0.2
4.8
0.3
60.1
65.3
奥多摩町
225.63
69.3
46.6
0.0
89.9
205.8
東京都計
1776.32
9894.9
44999.0
1482.0
9437.0
1827.0
7248.0
74887.9
a)窒素酸化物削減対策基礎調査報告書(東京都,1997) b)区毎排出量が未明な自動車からの排出量は、1994年度の排出量(東京都,1996)に比例すると仮定して総排出量から算出した c)区毎排出量が未明な船舶からの排出量は、東京湾に隣接する6つの区(江戸川,江東,中央,港,品川,大田)から均等に排出されると仮定して配分した d)区毎排出量が未明な民生からの排出量は、GHP(ガスヒートポンプ)からの排出量(東京都,1997)に比例するとして配分した e)区毎排出量が未明な航空機からの排出量は、全て東京国際空港のある大田区に配分した