50.2005.05.19「松井三郎氏の中西準子氏に対する名誉毀損訴訟を検証する
(その4)本訴訟とダイオキシン・環境ホルモン国民会議」

 

 前回までの検証で見てきたことを総括して考えると、本訴訟は中西氏が同氏のホームページで松井氏について書いたことに関して名誉回復を目的としているように装っているが、実際には中西氏による正式の回答がなされないうちに訴訟に持ち込むことで、中西氏の主張を封じることが目的のように見えてくる。
 それでは、中西氏の主張を封じなければならない理由は何であろうか。
 松井氏の弁護人として名を連ねる4名の弁護士を見ると、中下裕子氏が「ダイオキシン・環境ホルモン国民会議」の事務局長、神山美智子氏が同会議の副代表、長沢美智子氏と中村晶子氏は同会議の結成呼びかけ人として名を連ねている(ダイオキシン・環境ホルモン国民会議のホームページhttp://www.kokumin-kaigi.org/kokumin01.htmlによる)。同会議は1998年に「政策提言を行うことにより、広く世論を喚起して、政府に有効な対策を実現させることを目指して」設立され、ダイオキシンや内分泌かく乱化学物質問題に警鐘を鳴らすことで、近年の日本の環境政策に一定の影響を与えてきたと思われる。松井三郎氏も同会議のニュースレター第33号(20052月発行)に登場し、「環境ホルモンの新しい研究成果」と題する寄稿をしている。内容は、本検証(3)で触れた松井氏のシンポジウムでの発表とほとんど重なる。
 同会議の現状認識については、事務局長の中下氏が「国民会議第6年度の活動報告と次年度の活動方針〜 今こそ、日本中の良心を国民会議に結集し、バックラッシュをはね返そう!」と言う文書(ニュースレター第32号、200412月発行)の中で、「第6年度(引用者注:2004年度のこと)は、ダイオキシン・環境ホルモン問題に対するバックラッシュの動きが一段と顕在化した年でした。『ダイオキシン・環境ホルモン問題は終わった。空騒ぎだったのだ』という声をよく耳にするようになりました。しかし、アトピーやぜん息、花粉症などのアレルギーは増加し続け、今や国民の35.9%もが症状を訴えています。また、学習障害(LD)、注意欠陥多動障害(ADHD)、高機能自閉症などと考えられる児童が6.3%もいることが文科省の調査で判明しています。こうした現象の直接的・間接的原因のひとつとして化学汚染の影響が疑われているのです。決して問題が終わった訳ではなく、むしろますます深刻化しているといっても過言ではありません。」と述べ、バックラッシュにひるむことなく会員数の増加を、と訴えている。なお、2004年度の会員数は足踏み状態との総括も記載されている。
 すなわち、ダイオキシンや環境ホルモン問題が重大な環境問題であるとの認識で活動してきた同会議が、その認識に対する懐疑の目が社会的に広まっていることへの危機感を表明しているわけである。この同会議の見解に基づけば、中西氏は「空騒ぎ」であった可能性を指摘した一人となり(「環境ホルモン空騒」新潮45)、結果として同会議にとって邪魔な存在ということになるのであろう。
 他方、同会議に近い科学者の多くは関係する研究に従事しており、同会議がダイオキシンや環境ホルモンが重要で緊急な課題であるという趣旨で政策提言してくれることは、研究費を確保する上で都合良い関係にあると言える。もちろん、ここでは構造的にそうなっていることを指摘するのであり、個々の研究者が意図していると主張するわけではない。
 さらに、中西氏がこれまで主張してきたことの中に、もう一つ重要な点があるように思われる。同氏は、科学者による発表やマスコミによる報道は、予防のために何でも大げさに警告すれば良いというわけではなく、根拠の信頼度の説明や、他の事象によるリスクと比べた説明が必要であることを指摘している。すなわち、これらの説明無しの警告によって結果的に不当な損害が生じた場合には、それなりの責任が生じるということだろう。これまで少しでも危険性が予測されれば、根拠が不明確でも大々的な広報が許されると考えてきた人には、脅威に思えたとしても不思議ではない。
 このように、本訴訟については、ダイオキシン・環境ホルモン国民会議の都合や科学者との微妙な関係が仄見える。
(本稿、一旦終了)

「中西準子氏に対する松井三郎氏による名誉毀損訴訟」のリンク・センターへ

 

49.2005.05.10「松井三郎氏の中西準子氏に対する名誉毀損訴訟を検証する
(その3)シンポジウムでの松井三郎氏の発表」

 

個人情報の入り「訴状」掲載のその後
 5月3日に「化学物質問題市民研究会」に掲載されていた松井三郎氏が中西準子氏を訴えた「訴状」は削除された。
 この公開に問題があったという認識が「化学物質問題市民研究会」のホームページ運営者に生じたものと考えられる。なお、このホームページには、掲示板として原告代理人中下弁護人のプレスリリースが掲載されているが、その掲載当初には(317日)、この掲示板から「訴状」にリンクが張られていたそうである。その後、リンクが削除され、そして最終的に「訴状」自体も削除されたことになる。
 
プレスリリースのタイトルページには「発信:原告代理人 弁護士 中下裕子」と記載されているので、掲示版への掲載責任者は中下氏になるのであると推測されるが、「訴状」を掲載した責任の所在は明確でない面がある。それに、削除されたという事態の変化があったため、備忘録4748の関連する表現を一部修正させていただいた。
 何れにせよ、中西準子氏はこれまでもさまざまな嫌がらせや脅迫を受けながら主張を続けてきているのであり、個人情報が公開されたことによる精神的な被害は計り知れないと思われる。
 さて、今回は、本訴訟が起こる元になった環境省主催のシンポジウムについて検証したい。

環境省主催のシンポジウムのプログラム
プログラムは、
―――――――
セッション6 リスクコミュニケーション 
座長:中西準子(産業技術総合研究所)、内山巌雄(京都大学) 
・リスクコミュニケーションの思想と技術  木下冨雄(甲子園大学)
・内分泌攪乱化学物質に対するリスク認知  吉川肇子(慶應義塾大学)
・一般人の誤解と専門家のかんちがい:環境問題の何がなぜわかりにくいのか 山形浩生(評論家・翻訳家)
・消費者、製造業者、行政、科学者の間で、産業によって製造された内分泌撹乱物質の
リスクコミュニケーション   松井三郎(京都大学)
・環境リスクとジャーナリズムの問題点  日垣隆(作家・ジャーナリスト)
――――――――
 となっていた。

各講演者の発表内容
 これらのうち、日垣さんを除く4名の方の発表スライドを環境省のホームページで見ることができる。

http://www.env.go.jp/chemi/end/2004/sympo7_mats.html
 それらを見ると、木下氏、吉川氏、山形氏が3名はセッションのテーマである「リスクコミュニケーション」について、それぞれが全てのスライドで議論を展開したことがわかる。それぞれが異なった角度から切り込んでいるが、リスクの認知の問題が議論の中心になっている。

松井三郎氏の講演スライド
 ところが、松井氏のスライドは他の講演者と大きく異なる。全部で16枚のスライドがあるが、最初がタイトルページで、それに続く11枚のスライドは、主題のリスクコミュニケーションとは関係がない松井氏のグループが行った研究結果の紹介になっている。具体的には、女性ホルモン様物質によって駆動される遺伝子に関するものや、ダイオキシン類の受容体であるアリルハイドロカーボン受容体(AhR)に結合することを発見したインジルビンに関するものである。つまり、松井グループの内分泌かく乱研究成果の広報になっている。そして、13枚目に「ナノ粒子脳に蓄積 米、毒性評価を研究へ」というタイトルが読める新聞記事が示される。それに続く2枚では、化学物質が生物に種々のライフステージ毎に異なる、また、多様な影響を与える可能性があることを指摘している。そして、最後の1枚で、実験結果による化学物質が有害か無害かの判定に基づいて、現実における有害か無害を推定した場合に生じる、False positiveFalse negativeという2通りの過誤について図示している。結局、リスクコミュニケーションと多少なりとも関係すると判断できるスライドは最後の1枚だけである。これらの講演スライドから判断する限り、松井氏の講演は、そのセッションのテーマであり、かつ、本人の演題もあった「リスクコミュニケーション」に関する議論はほとんど無く、まず内分泌かく乱化学物質に関する同氏の研究成果を紹介し、次いで1315枚目で示したように、化学物質の影響については未知の側面も多く、生物に対して大きな影響を及ぼす可能性があり、更なる研究が必要というメッセージを発信しようとしたと受け取られる。
 松井氏が上記のことを主張されるのは自由であるが、化学物質に関するリスクについて如何に市民とコミュニケーションを図っていくかというシンポジウムの主題からはいささかずれている。シンポジウムで期待された発表内容とは異なるとの印象を受けるし、言い換えれば、この発表の場を使って、自分の研究成果を広報したように見える。こう見てくると、松井氏が訴状で主張する、「他者の発言を録に聞かず、事実(新聞記事)の確認もせずに、自らの勝手な思いこみに基づき他者を批判し、その名誉を貶めるというもので・・・」という批判も割り引く必要がありそうに思える。場違いな主張を展開したのは松井氏ではなかったのだろうか。
(次回につづく)

「中西準子氏に対する松井三郎氏による名誉毀損訴訟」のリンク・センターへ

 

48.2005.05.02「松井三郎氏の中西準子氏に対する名誉毀損訴訟を検証する
(その2)松井氏側弁護人の主張」

訴状をそのままの公開する人権感覚
 先週、この検証記事(1)を公開したところ、訴状のPDFファイルに個人情報が記載してある。そのようなものを公開してよいのかというメールがすぐさま私の所に舞い込んだ。この人は、リンク先を書いておいた訴状のPDFファイルを、私が公開したものと勘違いされたのであった。確かに、一足飛びでPDFファイルに飛ぶので、私のホームページの中にあると間違われても仕方がなかった。しかし、実はこの「訴状」のPDFファイルは「化学物質問題市民研究会」のホームページの中にあるのだ。昨今、個人情報の保護について厳密性が要求されているところであるが、このような行為は大変な問題であると言えよう。
53日に、「化学物質問題市民研究会」のホームページから当該ファイルが消去された事態、および、訴状掲載責任の所在について不明確な部分があるため、この部分の表記を改めました。読者の方に混乱を与えて申しわけありません。59日修正)

 さて、今回の本題に入ろう。

松井氏側弁護人の主張
 松井三郎氏の名誉毀損裁判の訴状には原告訴訟代理人弁護人として、中下裕子、神山美智子、長沢美智子、中村晶子の4名が名を連ねている。中下氏は、「化学物質問題市民研究会」の掲示板にプレスリルースと称してこの訴訟について述べている。
(http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/keijiban/keijiban_master.html)
これによれば、「本件は、決して、松井氏が個人的な名誉回復だけを求めて提訴したものではない。松井氏が提訴に踏み切ったのは、次のような理由からである。」と述べ、2つの理由を挙げている。これらを検討しよう。

原告側の提訴理由(1)
 中下氏は第一の理由として、「(1)批判そのものが悪いというのではない。・・・・本件のように、碌に他者の発言も聞かず、事実も確認せず、一方的に他者の名誉を毀損するような決めつけを行うことは、「科学者」の名に値しない行為である。ましてや、中西氏は単なる一科学者ではない。科学者を指導育成し、国の科学技術のあり方を決定するという重責を担っている。前記シンポジウムでも、「リスクコミュニケーション」問題の座長を務めていたのである。本件行為は、そのような立場にある者の言動として、看過できないものである。」と述べている。
 しかし、前回検証したように、中西氏は一旦記事を取り下げ、再検討して回答するとしているのである。看過しえないものか否かも含めて、回答を待って判断するのが筋だろう。
 また、中西氏のホームページは個人の責任で書かれたものであり、所属する独立行政法人の研究機関の責任者として書いたものでも、シンポジウムの座長の立場で書かれたものでもないことは言うまでもない。(それは、同氏のホームページがプロバイダーのサイトに設置されていることからも明らかである。)公的立場の重責を担っていようがいまいが、自由な議論は奨励されることはあって、非難されるものではい。

原告側の提訴理由(2)
次に、中下弁護士は2つめの理由として、以下のように記している。
「(2)さらに、中西氏は、「環境ホルモン問題は終わった」と考えておられるようであるが、これは大変な間違いである。松井氏らの研究成果からも、環境ホルモン問題は、複雑ではあるが、人の健康や生態系にとって、決して看過できない重大な問題であることが明らかになっている。したがって、今後も、ますます精力的に研究を進め、有効な対策を講じることが求められている。中西氏のように、国の科学技術のあり方を決定する立場の人が、そのような誤った認識を持ち、その結果、国が政策決定を誤ることになれば、国民の健康や生態系に取り返しのつかない事態も招来しかねない。」
 これは、とても訴訟の形で裁判所が判断すべき問題とは言えない。環境ホルモン問題が、重大と考える人がいても一向に構わないが、それよりもっと大きな社会問題や国際問題があると考える人がいることをも私は疑わない。環境ホルモン問題がどの程度の大きな問題なのかは、学術的、あるいは市民も参加した会議で議論するなり、言論界で論戦を行えばよいことであて、裁判で決着をつけることではない。
 このように松井氏の弁護人が述べる「提訴に至った理由」から判断すると、この訴訟は、単に松井氏の見解に対し、中西氏が異なる見解を述べたのが気に入らないから訴訟に持ち込んだということになってしまうのだ。(私は、中西氏が「環境ホルモン問題はおわった」と考えているかどうかは知らないが。)すなわち、名誉毀損という訴えは表のことであって、本当のねらいは、自分たちの主張と異なる主張をする中西氏の言論を封殺することが目的のように見えてくるのである。
(次回に続く)

「中西準子氏に対する松井三郎氏による名誉毀損訴訟」のリンク・センターへ

 

47.2005.04.28「松井三郎氏の中西準子氏に対する名誉毀損訴訟を検証する
(その1)回答前の提訴の不思議」

京大教授松井三郎氏が中西準子氏を名誉毀損で訴えたと聞いて、俄には信じ難かった。訴訟の原因になったシンポジウムに私が出席していなかったことや、名誉毀損とされた中西準子氏のホームページは既に中西氏自身により引き下げられていたこともあり、事実関係を十分把握してからと思ったので、発言を控えてきた。現時点では、訴状の内容が明らかになり、松井氏の当該シンポジウムで用いたスライド(パワーポイントのプレゼンテーション)も見ることができること分かったので、これら既に公開された情報に基づいて、本訴訟について検証したい。

名誉毀損とされた行為
訴状(「化学物質問題市民研究会」のホームページに掲載されていたが、53日に削除された)によれば、両氏が出席した環境省主催の「第7回内分泌かく乱化学物質問題に関する国際シンポジウム」の第6セッション「リスクコミュニケーション」について、中西氏が平成161224日付けで自分のホームページ「雑感」に掲載した「環境省のシンポジウムを終わって−リスクコニュニケーションにおける研究者の役割と責任−」と題する記事の中において、松井氏のパネリストとしての発言などを伝えた部分において名誉を毀損する内容があったという。ここでは、その内容が名誉毀損を構成するほどの物か否かについてはひとまず置くことにして、経過について検証する。
松井氏は2005117日に中西氏にメールを送り、上記記事の内容について抗議した(訴状による)。それに対して、中西氏は120日に、当該ホームページにおいて、2人から抗議のあったことを述べ、その1224掲載の記事を削除した。しかし、訴状によれば、「記事全体を削除した。しかし、抗議したのが原告であることも、原告への謝罪の意志も明示されていないため、原告の社会的評価は依然として低下したままであって、到底、名誉回復の措置が講じられているとは言えない」と主張している。

中西氏は3月末までに回答するとしていた。なぜ待てなかったのか?
 訴状には記載されていないが、中西氏が2005117日に当該記事を取り下げるに際して記したことは、以下のとおりである。
http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/zak286_290.html
(引用開始)
1.お二人の方から、抗議がありました。
2.さらにお一人の方から、スチレン低量体に対する記述が間違いであるというご指摘を頂きました。
1.に関しては確かに、私に非があると思いました。2.については、基本的には見解の相違、あるいは文章表現の簡略化による問題ではないかと思っていますが、送って頂いた論文リストの中に、私が読んだことがないものもあり、或いは新しい情報を知らなかった、また、私の認識が固定化してしまっていて、新しい情報・発見による修正が行われていなかったこともあったのかと危惧しております。
したがって、きちんと調べて私なりの見解を出すまでの間、286の本文は引き下げることに致しました。
1.に関しても、2.に関しても、もう一度検討し、私なりの考えを発表します。私に非のあることについては、その時点でもう一度謝罪させて頂きます。
withdraw
に至りましたことを、読者の皆さんに謝罪致します。
現在、年度末の仕事に追われており、なかなか時間を作ることができません。やや遅くなることをお許しください。どんなに遅くなっても、年度内には結論を出します。
(引用終わり)
 今回の訴訟の対象となっているのは、「1」であるが、それについても、年度内(2005331日)までに結論をだし、非があれば、その時点でもう一度謝罪をすると述べている。
 訴状が出されたのは316日であり、中西氏が設定した期限が来る前である。なぜ、期限を待って、それで謝罪が無い、あるいは、不十分だということになるまで待てなかったのか。これは大変不思議である。(なお、提訴されてしまった以上、3月末に中西氏が本件に関しての見解を公表できなくなったのは当然である。)
 更に、抗議に対応して、直ちに中西氏が記事を引き下げたという事実がある。掲載したままで、再検討が終わるまで待ってくれと言ったわけではない。この事実は、正式な謝罪がまだ無いにしても、抗議に対して真摯に対応したと結果と見ることができる。抗議を無視したというのとは訳が違うのである。
以上の事実経過を見ると、中西氏の最終的な対応を待って判断するのが良識ある人のすることではないだろうか。これが、今回の名誉毀損訴訟の第一の不可思議な点である。
(以下、次回に続く)
「中西準子氏に対する松井三郎氏による名誉毀損訴訟」のリンク・センターへ


46.2005.01.06「ウクライナ共和国大統領候補のダイオキシン中毒」

正月の話題としては相応しくないですが、年末の話題について一言。
 ウクライナの野党リーダーで、昨年末の再選挙で大統領に当選したViktor Yushchenko氏は20049月にダイオキシンを盛られた可能性があると報道されている。確かに、彼の顔面は有機塩素中毒に特有なクロロアクネの症状がみられる。同氏を診察したRudolfinerhaus病院のMichael Zimpfer博士の発表では、血液中ダイオキシン濃度は一般人の1000倍だったという。また、血液の分析をしたというFree University in Amsterdam(アムステルダム自由大学)のAbraham Brouwer教授によれば、血液中濃度脂肪当たり100,000 pg-TEQ/g-fatだったという(121415日頃の各種メデイア)。これは、普通人の20 pg-TEQ/g-fat程度と比較すると、約5,000倍程度になる。この結果がどのような方法による測定なのかがメディアの報道では述べられていない。ところが、米国化学会のChemical and Engineering News誌(20041220日発行)(1)では、はっきりとCALUXバイオアッセイ(chemically activated luciferase gene expression)によると記載している。バイオアッセイで測定できるのは多様な種類のダイオキシン類の総合したダイオキシン様活性として強さであり、どんな種類のダイオキシン化合物による中毒かは問わないことになる。そこでこの記事では、詳細はGC/MSによる結果待ちとしている。
 他方、1217日付けの各種メディアではAbraham Brouwer教授がダイオキシンの中身は2,3,7,8-Tetrachlorodibenzo-p-dioxin (TCDD)と明言したと報じた。これが本当だとすると、1998年春にウィーンで起こったダイオキシン中毒事件と似てくる(2, 3)。この事件は同じ会社に勤める2名の女性がクロロアクネになり、血液からTCDD144,00026,000 pg/g blood fatで検出されたという事件である。この中毒の原因については、確かな情報を持たないが、伝聞では犯罪事件のようである。144,000 pg/g blood fatの女性のクロロアクネ症状はかなりひどかったようだが、命には別条なかった。今回の100,000 pg/g fatはこれに次ぐ、人で知られている2番目に高濃度の中毒と言うことになる。
 ところで、私は最初にこのダイオキシン中毒報道を聞いたときは、PCB中毒なのではないかと思った。数年前のベルギーでのニワトリのダイオキシン汚染と騒がれた事件は実は、PCB汚染だった(PCBの幾つかの異性体はダイオキシン類の仲間)。また、PCBなら、廃PCBとして容易に入手可能だろう。他方、純度の高いTCDDの入手は、自分で合成するのでなければ難しい。市販は分析用標品や動物実験用くらいだろうから、値段も高いし、微量でしか売っていない。何れにせよ、これらの場合は犯人には研究機関関係者などが含まれる可能性が高い。
しかし、なぜTCDDを犯行につかったのか大きな疑問である。毒殺が目的なら他に入手しやすい薬品がたくさんあるだろう。また、ダイオキシンは長期にはいろいろな慢性毒性を引き起こすが、急性毒としてはそれほど効かないから、その辺りを熟知する人の犯行なら、毒殺に使うのも奇妙だ。急性毒としては効かないことで、犯行が気づかれるまでの時間稼ぎをした可能性は残るが。
 いずれにせよ、何らかの偶然や事故でTCDDを大量に摂取することは考えられないので、故意によることは確実であるが、奇妙な事件だと言うしかない。
 さて、血液中のダイオキシン類で濃度が上昇していたのはTCDDだけなのだろうか? まだGC/MSの分析結果の詳細についての情報がないので分からないが、TCDDを中心とするいくつかのダイオキシン類の濃度が上昇しているのなら、2,4,5-TなどのTCDDを比較的高濃度に不純物として含む化合物を使った可能性もでてくる。
このように、詳細な分析結果が明らかになれば、その組成を使って原因や犯人を探ることが可能になるだろう。当研究室では環境汚染の原因究明にダイオキシンの組成情報を利用してきたが(環境鑑識学)、これは犯罪捜査のための鑑識である。

1) Bette Hileman: Mstery - Yushchenko Poisoing, C&CN p. 13 (Dec. 20, 2004)
2) A. Geusau, K. Abraham, G. Stingl and E. Tschachler: Clinical and laboratory follow up in two patients severely contaminated with 2,3,7,8-tetrachlorodibenzop-dioxin, Organohalogen Compounds Vol. 55, 295 (2002)
3) A. Geusau, O. Päpke and K. Abraham: Blood kinetics in two patients severely contaminated with 2,3,7,8-tetrachlorodibenzo-p-dioxin, Organohalogen Compounds Vol. 55 297 (2002)